【さ行】 - 全共闘時代用語の基礎知識1960-1975 再建準備委員会
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【さ行】

全共闘時代用語の基礎知識

【さ行】


サイケ【さいけ】〔形容動詞〕
サイケデリックの略。LSDを服用すると、周囲の風景などが、独特の縞模様になったり、歪んだり、きらきら輝いて見える。そのときの幻覚的なイメージを絵画にしたのがサイケデリック・アートである。そのときの幻聴や雰囲気を音楽にしたのが、サイケデリック・ミュージックだ。ヒッピー系統の芸術の流れといっていい。サイケデリックアートとして、ピーター・マックスのデザインしたものが流行した。日本では「平凡パンチ」の拍子を横尾忠則がサイケ調の絵で飾った。

裁判闘争【さいばんとうそう】〔名詞〕
裁判で決着をつけるために闘争するというよりは、裁判を闘争の延長線上において闘いの場を継続するといった意味あいが強い。全共闘運動の後半期になると、東大安田講堂攻防戦や、1968年10月21日の新宿騒乱事件関連で逮捕された学生たちの裁判がはじまった。ここで、それらの刑事裁判を、それまでの闘争の一環として闘うといった考え方が生まれてきた。これが「裁判闘争」と呼ばれた。第一回公判から、罪状認否をしなかったり、人定訊問(当時は、こう呼んだはずである。本来の法律用語は「人定訊問」である。これが「人定質問」というやわらかい用語になり、マスコミでも多用されるようになったのは、たぶんロッキード裁判で田中角栄が法廷に出てきた頃からではないか。つまり、元首相という立場を憚ったのだろう)でさえも拒否するといった戦術がとられた。担当の弁護士も、あの手この手で裁判の長期化をはかったりした。今日、弁護士がおこなっているさまざまな法廷戦術の大部分は、このとき生み出されたといっても過言ではないだろう。

催涙液【さいるいえき】〔名詞〕
学生や暴徒鎮圧のために放水車によって噴霧される催涙性の液体。全身に浴びると皮膚が非常に荒れる。火炎ビンをまともにくらった装甲車や機動隊に消火のために、やむなく手近にある催涙液の放水をすることもあった。

催涙ガス【さいるいがす】〔名詞〕
多くは粉状になっており、石灰のような感じの白い色をしている。涙腺を刺激し、涙がとまらなくなり、洟水が多量に出る。皮膚にもびりびりした刺激をもたらす。警察では通常、クロルアセトフェノン(CN)を用いているようだ。この化学物質は、一時性のもので、時間が経つと症状が緩和されるというが、服に着いたガスの匂いや粉末はなかなか消えなかった。

催涙銃【さいるいじゅう】〔名詞〕
正式名称は不明だが、催涙弾を打ち出すための銃。チャック・コナーズのザ・ライフルマンではないが、銃身を切った寸詰まりで、銃口がかなり大きな、重たそうな銃だった。

催涙弾【さいるいだん】〔名詞〕
催涙ガスを込めた弾丸。「催涙ガス弾」ともいう。通常、円筒形をした弾丸である。これを撃ち出す道具を催涙銃と呼ぶ。ときに不発弾もあった。足元で爆発すると、白い粉が周囲に一斉に飛び散り、あたりにガスが充満し、霧がかかったように視界が閉ざされる。当初は、上にむけて撃ったので、その弾道は大きな放物線のアーチを描いていたが、学生の武器が先鋭化するとともに、だんだんに水平撃ちに変化した。水平撃ちで至近距離でまともに直撃されると、あたり所が悪ければ死亡した。

されど われらが日々――【されど-われらが-ひび】〔固有名詞〕
柴田翔の小説の題名。第五十一回芥川賞受賞作品。六全協時代の学生の絶望と愛が主題。初出は1963年という。

産学協同(路線)【さんがく-きょうどう(ろせん)】〔名詞〕
産業(大企業)と大学が結び付いて、大学を卒業したら、すぐに産業界に即応できるような戦士になれるような学生を生み出そうとする方針のこと。

サンドイッチ(規制)【さんどいっち(きせい)】〔名詞〕
機動隊が学生デモの両側をはさみ、デモの進路をはばむ規制の仕方。サンドイッチ規制ともいう。普通、ハム(学生)よりもパン(機動隊)のほうが数倍も厚く、デモはほとんど一列縦隊に規制された。道の向こうでサンドイッチ規制されたデモ隊を見ていると、学生の姿がすっかり隠れてしまい、機動隊の隊列が行進していると勘違いするほどだった。

三派(系)全学連【さんぱ(けい)ぜんがくれん】〔組織〕
三派系全学連、あるいは三派連合、三派ともいう。初期のころ、新左翼系の学生運動は、いずれも「三派」が学生運動の代名詞として報道されることが多く、海外でもSanpaの名前で知られた。三派連合には当初、構改派、社青同、社学同の三派が連合を組んでいたが、のちに革共同中核派が入り、四派となる。さらに構改派が脱退し、新三派(社青同、社学同、中核派)ができる。1968年当時、三派系全学連には、共産同マル戦派、共産同統一派、社学同ML派、社学同、社青同解放派、社青同国際主義派、革共同中核派が属していたが、1969年には破綻をきたし、社学同などは反帝全学連を結成した。

三里塚【さんりづか】〔固有名詞〕
千葉県の地名。1966年に成田の三里塚に、突如、新しい国際空港を建設するという計画が浮上し、強引に計画が押し進められたため、激しい反対闘争が起きた。全学連各派がこれに参加し、三十年戦争が展開されることになった。

指揮官車【しきかんしゃ】〔名詞〕
機動隊の隊長がいる装甲車。ほとんど窓というものがなかったような気がする。ここから一斉検挙命令が下されると、学生は慌てて逃げた。

試行【しこう】〔固有名詞〕
吉本隆明、谷川雁、村上一郎が作った文学・評論関係の雑誌の名前。主に新左翼系の学生が愛読した。

シコシコ【しこしこ】〔副詞〕
全共闘運動が衰退した時期から生まれた流行語。語源は明らかではない。暗く、そっと、何かに取り組むこと。

思想の科学【しそうのかがく】〔固有名詞〕
「思想の科学社」が発行していた理論雑誌。構改派の武藤一羊などがよく寄稿していた。新左翼系の雑誌ではあるが、1968年当時、理論的には穏健派に属していた。全共闘運動が衰退した後も発刊されていたが、十年ほど前に廃刊された。

私服【しふく】〔名詞〕
私服刑事のこと。刑事部の刑事も、内勤の場合は私服ではあるが、多くは公安部の刑事をいった。公安部の刑事は、ときに学生と同じようなジャンパー姿の格好をして、デモ隊に紛れ込んだりしていた。デモの際、機動隊の規制から逃れ、付近をうろついていると、私服につかまり、物陰でボコボコに腹などを殴られ、そのくせ逮捕はされないということも多かった。つまり、刑事はそうして憂さ晴らしをしていたようである。

社学同【しゃがくどう】〔組織〕
社会主義学生同盟の略称。共産同(共産主義者同盟)の学生組織。通称BUND(ブント、俗な読みでは「ブンド」)。BUNDはドイツ語で同盟、連盟の意味。だが本来、ブントは社学同の上部組織である共産同の呼称であった。学生セクトの中で、たぶん最も大衆的なエネルギーを結集したセクトであろう。それだけにノンセクトラジカルなどの大衆的結集が衰退すると、途端に組織的にはがたがたになったものと思われる。70年以降は、ほとんど解体に近い状態になったようである。《参照→共産同、ブント》

社青同【しゃせいどう】〔組織〕
社会主義青年同盟の略称。日本社会党の青年政治組織。60年安保闘争、三池闘争のあとに、社会党が若返りをはかる目的で、若いエネルギーを吸収するために結成したが、そのラジカルな部分の学生が解放派を結成した。しかし、その解放派の過激路線が71年に批判され、解放派は社青同から追い出された。社青同には、左派の解放派のほか、右派の協会派、主体と変革派、人民の力派などがあったが、厳密にいえば、人民の力派は社青同から飛び出した部分で結成したもので、社青同には属さない。

シュプレヒコール【しゅぷれひこーる】〔名詞〕
集会やデモの際に意志統一のために唱えるかけ声。「安保粉砕、闘争勝利」というのが一般的だった。かけ声をかける際は、「シュプレッヒ、コール」と聞こえることが多かった。
【証言】シュプレヒコールについては「安保粉砕、闘争勝利」の他に、「安保粉砕、沖縄奪還」(中核派)などもあった。そういえば大学立法についても記事があるべきで、「立法粉砕、闘争勝利」というのもあった。

勝共連合【しょうきょうれんごう】〔組織〕
原理運動と同じ。現在の統一教会の運動。「勝共連合=原理運動」という言い方をしていた。勝共とは、共産主義に勝つという意味。統一教会はもともとは反共組織として出発した。

消耗-する、消耗-な【しょうもう-する、しょうもう-な】〔動詞、形容動詞〕
疲弊すること。かったるくなること。やっても無駄なこと。やる意義が見出せないこと。《文例:「消耗な闘争はもうやめようじゃないか」》

職革【しょっかく】〔名詞〕
職業的革命家の略。革命運動を職業とする人。デモで逮捕されたとき「職業は?」と警察に聞かれ、「革命家」と答えた剽軽者?の学生もいたそうである。

心情三派【しんじょうさんぱ】〔名詞〕
心情的に三派全学連を支持すると表明した作家達のこと。野間宏、堀田善衛、野坂昭如ら六十一人の文化人や作家が、1969年、東大全共闘支持の声名を発表した。心情三派の言葉は、野坂昭如の造語。

シンナー【しんなー】〔名詞〕
当時はシンナーとはいわず「ボンド」という名前が一般的であった。接着剤であるボンドにはシンナーが含まれているので、これをビニール袋の底に塗り付け、そのビニール袋の中の空気を吸引する。初心者が吸引した当初は、ボンドの刺激臭気に気分が悪くなり、覚醒後は二日酔いのように頭ががんがんする。人によって症状は異なるが、幻覚や幻聴に襲われる。常用すると、思考回路が破壊され、短絡的で感情的になる。

シンパ【しんぱ】〔名詞〕
シンパサイザーsympathizerの略。同調する者という意味。セクトに属さないが、セクトを支持するとか、あるいは闘争や学生の考え方を支持する人たち。

ジグザグデモ【じぐざぐでも】〔名詞〕
デモ隊が密集して道路を全面使って左右に練り歩くのがジグザグデモである。(関連語→フランスデモ)

自己否定【じこひてい】〔動詞〕
資本主義を終わらせ共産主義社会を実現するためには、権力を奪取して革命をしなければならないが、しかし、当然のことながら、革命前には、革命運動家たちは資本主義社会に生き、そこで育つ。そこで、自分の生きてきた過程をまず徹底的に否定していくところから、革命的な意識が育っていくという考え方。

実存主義【じつぞんしゅぎ】〔動詞〕
60年代から70年代はじめにかけて、実存主義が日本でも流行した。人間は無の中に投げ込まれた存在であるが、不安を超克し、自己の存在のあり方を自由に選択しながら自己形成をしていくという考え方。ただし、実存主義には二大潮流があり、それはサルトルとカミュに代表された。そこで、サルトルとカミュの論争(サルトル=カミュ論争)がおこなわれた。どちらかというとサルトルは社会参加に重点を置いたために、政治的な存在としての実存という方向にいったが、カミュはあくまでも人間の持つ内面的な実存を文学的に追求した。カミュの「不条理」とともに、サルトルの「アンガジェ(自己投機)」あるいは「アンガージュマン」という言葉が、学生同士の会話の中でもよく出てきた。

ジャズ喫茶【じゃずきっさ】〔名詞〕
新宿や吉祥寺、高円寺、国分寺、中野などには、モダンジャズのレコードを専門にかけたり、あるいはライブ演奏をする喫茶店があった。だいたいの店が腹の底から響くくらいの音量の出るアンプを備えていたので、到底会話などできない環境だったが、そんなところでも、なぜか当時の学生は口角泡を飛ばして議論した。喫茶店で黙って漫画本を読んでいるという姿は、全共闘時代の学生にはなかった。
ちなみに、モダンジャズのことを、「モダン」をひっくり返して「ダンモ」ともいった。ライブのJAZZ喫茶では、新宿の「ピットイン」が有名、ほかに有名店としては、「DIG」「DUG」「ビレッジバンガード」「ジャズビレッジ」などがあった。国分寺では、東口駅前に「邪宗門」という、少しアンティークなインテリアの店があり、かなり古いLPもそろっていた。《参照→ダンモ》

序章【じょしょう】〔固有名詞〕
京大パルチザン、赤軍派、釜ヶ崎共闘などの残党などが発行したと思われる情報誌。「叛逆への招待」と「逆光の思想」が合同して出版した。第二号が昭和四十五年五月十日に発行されている。

一〇・八【じゅっぱち】〔名詞〕
十月八日のこと。「じゅってんはち」とも読む。この日は、1967年には第一次羽田闘争があり、1968年には米タン阻止闘争があった。本来の日本語の伝統的な読み方からいえば、「じっぱち」あるいは「じってんはち」となるはずだが、当時から「十」を「じゅう」と発音することが多くなっていたようである。

一〇・二一【じゅってんにーいち】〔名詞〕
十月二十一日のこと。国際反戦デーをさす。本来の日本語の伝統的な読み方からいえば、「じってんにいいち」となるはずである。

情況【じょうきょう】〔固有名詞〕
新左翼系の雑誌の名前。確か社学同系ではなかったか。この雑誌のタイトルから、たぶん「情況」という言葉が一般化した。現在、復刊されている。

情況への発言【じょうきょうへのはつげん】〔固有名詞〕
吉本隆明講演集。昭和40年前後におこなわれた講演から収録している。比較的に易しいので、吉本隆明の理論の理解に役立った。徳間書店刊。昭和四十三年八月十五日第一刷。

新宿騒乱事件【しんじゅくそうらんじけん】〔固有名詞〕
1968年10月21日、国際反戦デー。この日は国際反戦統一行動ということで、全国で基地撤去・米タン反対・沖縄奪還の闘争が展開された。東京では、反戦青年委・中核派・社学同・ML派・第四インターなどが、昼は明治公園、夜は日比谷野外音楽堂で集会を開いたあと、新宿駅・防衛庁で闘争。中核派・ML派・反戦青年委は、新宿駅前や駅構内で労働者・市民二万人の合流のもとに米タン阻止の大集会と大デモを開いた。機動隊は、翌二十二日午前零時十五分、騒乱罪を適用して市民多数を暴行・逮捕した。一方、社学同は二千人が二十日につづき防衛庁に突入。丸太をかかえた決死隊を先頭に正門に突撃した。社青同解放派は国会ヘ激しいデモ。革マル派は麹町署付近で機動隊と衝突。総評などの労働者は国労・動労の軍需物資輸送拠点での一時間ストを中心に明治公園で四万人の集会。大阪で学生・労働者数万人が御堂筋デモ。広島で学生、黄幡弾薬庫へ突入。九州で学生らが板付基地前で激闘した。《参照→国際反戦デー》

【風太郎の証言】
 陽が落ちかけ、涼しい風とともにほんのりと夕闇の迫る新宿へ着いたのは、午後五時ごろ――。足速やに階段をかけ昇って東口の広場へ出てみると、驚いたことは、駅の出口の屋根や地下鉄の出口の屋根など広場を見渡せる高いところは、人がぎっしりと立っている。広場では、三つ四つのグループができて、いつもよりずっと人の輪が拡がった“青空討論会”が開かれている。時おり「早くこないかな」とささやく声が聞こえてくる。
 まだ当分学生のデモは到着しそうもないので、あたりをブラブラと歩いてみた――正確に表現すれば、ものすごい人ごみで自分の思った方向にはとても行けず、人の流れにのってベルトコンベアーの上の物のように流されて行ったという方が当たっているが。誰かが面白半分に「わー」と叫ぶと、その方向へ人の流れが移動して行く。前後左右はほとんど見えないので、なんとなく上の方を見て歩く格好になる……。見上げたビルの五階あたりの窓のシャッターに、カメラを抱えた人の影が見える。昼間も、学生を“監視”するためか、ヘリコプターが上空を飛んでいたのを思いだした。
 七時すぎ、白いヘルメットを被ったデモ隊の第一陣が到着する。待ちかねた人から「お待ちどうさま“全学連”でござい」とかけ声がかかる。あれほど人が多かったにもかかわらず、デモ隊の通る道だけは、不思議にちゃんと開けてくれる。人の数も先程より増え、デモの隊列に入る学生、デモへ参加を求めて手を差し延べる光景も、あちこちで見られる。
 八時ごろになると、中核、ML、構改系、革マルなど各派がほとんど出そろい、人垣の中を色とりどりのヘルメットの波が交錯する。ヘルメットの数だけでも、およそ五千人ぐらいいただろうか。学生・市民あわせて二万人あまりのデモが新宿の町に渦巻く。しかし、機動隊の姿はまだ見えず、人々は多少がっかりした表情を浮かべ、「今日はなさそうだな」と安心とも失望ともつかない溜息があちこちでもれる。
 突然、「バーン」という催涙弾の破裂する音が聞こえる。駅構内へ飛んでいく催涙弾が、さながら“流れ星”の大群のように何発も何発も続いている。先程見上げたビルの屋上からも打ちこまれているようだ。
 人をかきわけながら、十月八日の闘争で壊された広場と線路の境界にある柵が、新しく作り直され、五メートル近かくある“鉄の壁”になっているそばへ行ってみる。機動隊の攻勢にひるんだのか、ヘルメットの学生が“鉄の壁”を逃げ降りてくるのにぶつかった。
 地下道をくぐり抜けて、西口側へ出てくると、涙がせきを切ったようにあふれ出てくる。涙で顔をくしゃくしゃにした一人が「こりゃ、政府が悪いんでしょうがね」と話しかけてくるが、催涙ガスの中ではまともな話もできず、「そうですよ、そうですよ」と繰り返すだけ。
 九時ごろやっとの思いで、線路上に出てみる。線路上にいる学生は三百人足らずで、ホームの上に陣取っている機動隊に投石をくりかえしている。催涙弾はあいかわらず飛んでくるが、風が機動隊の陣取っているホームの方へ向かって吹いているので、学生にあまり被害はない。足元で催涙弾が破裂して飛び上がった。指揮者の「前にいって、石を投げろ」「石を前に送れ」と叫ぶ声がするが、機動隊が少し前へ出る気配をみせると、「機動隊だぞー」という声が前の方からあがって、あわてて逃げ出す。そして少したつとまた投石、催涙弾と投石で一進一退を繰り返しているうちに、デモ隊の数も増え、機動隊はジリジリと後退し、駅の構内から逃げ去ってしまった。
 機動隊のいなくなったホームに上がると運悪くその時間にホームに着いていた電車の窓は粉々に砕け、あたり一面にガラス片が飛び散っている。これも投石で壊されたと思われる信号機のショートした炎が赤くぼんやりと輝いている中をデモ隊は進んで行く。
 十時ごろ、駅構内には四千人以上のデモ隊があふれていた。静寂の中で、学生が“鉄の壁”を壊そうとする「ガーン、ガーン」という音だけがやけに響いてくる。なかにはこの作業をぼんやり眺めている人もいる。一方まだ催涙ガスのたちこめている改札口附近では「電車を動かせー。帰りたいんだよう」と乗客がわめきながら、駅員と押し問答を繰りかえしている。
 十時半、各派は帰り支度を始める。このころには広場にいる人の数はかなり減ったが、それでもまだかなりの人数が残っている。その中をフランスデモ、ジグザグデモの波がかけめぐっていく。「10・21国際反戦デーをわれわれは勝ち取った。ベトナムで闘っている人民と連帯して闘ったのだ。今後も国家権力の弾圧をはねのけて闘っていかなければならない」とスピーカーの声が、アジテーションをくり返す。
 十一時を過ぎると各派は、ほとんど新宿を離れてしまった。それから一時間あまり過ぎた0時十五分「騒乱罪」の適用が発令された。その時刻デモ隊はほとんどいなかったので、逮捕されたのは、見物人がほとんどだった。(孝)
(中央大学新聞 昭和43年11月5日付 第851号 ※誤字脱字は原文のまま)

人民の力派【じんみんのちからは】〔組織〕
社会主義協会・社会主義青年同盟が、60年代末に社会党強化路線の是非をめぐって向坂派と太田派に分裂後、太田派内の独自党建設を指向する神奈川協会、九州、関西、長野等、各地のグループが1971年に一斉に協会を離脱し、「日本労働者階級解放闘争同盟」を結成した。もともと神奈川社会主義協会の機関誌であった「人民の力」を中央政治機関誌名として継承したため、一般に「人民の力派」「人力(じんりき)派」と呼ばれた。これに太田派系社青同学生班や「反安保改憲阻止学生会議」に参加していた武蔵大・武蔵工大・法政大・明治大・佐賀大等の学生グループも合流。また、労働戦線では、国労青年部等に一定の影響力を持った。
その後、旧神奈川協会を中心とする同盟中枢と九州・関西・学生グループ等の路線対立が表面化し、これらの下級組織解散処分等を経て、75年に「日本労働者階級解放闘争同盟全国協議会」(機関誌名より「戦線派」と呼ばれた)が結成され、分裂が確定。全国協議会は翌年「労働者階級解放闘争同盟」と組織名を変更し、また学生組織として「レーニン主義学生同盟」が結成された。戦線派は70年代後半から80年代初頭にかけて反むつ闘争、韓国民主化支援運動、反原発運動などに積極的に取り組み、前衛派・主体と変革派・首都社研(ブント竹内派)等との提携関係を深めたが、90年前後に組織を自主的に解散して消滅した。(=Z)

スケジュール闘争【すけじゅーるとうそう】〔名詞〕
日程にしたがって闘争をしていくこと。または、考えもなくスケジュールに追われるだけの闘争のこと。
《証言》1968年から1969年にかけて、ほとんど毎日のように、何らかの闘争スケジュールが組まれていた。まさにモーレツ社員さながらのスケジュールをこなしていた感がある。あまりにも忙しくて、なぜそこに行って何のために闘うのか、ほとんど考える暇がなかったというのは過言だろうか?(=風太郎)

スターリニスト【すたーりにすと】〔呼称〕
革命ロシアで、レーニンの次に政権を握ったスターリンの理論傾向を有するものの意味。スターリンは死後、批判され、膨大な数の指導者たちが血の粛正をされたことや、連邦内の国家への官僚的締め付けなどの犯罪性が明るみになった。主に日本共産党系に対する呼称として使用され、共産党の官僚的体質が批判された時期もあった。

スチューデント・パワー【すちゅーでんと・ぱわー】〔英語〕
学生運動に対してマスコミが名づけた言葉。輸入語。アメリカやヨーロッパでの学生運動は、スチューデント・パワーの語感にふさわしいものだったかもしれないが、日本の学生運動はどうだっただろうか。

SNCC【すにっく】〔組織〕
アメリカの学生運動組織。構成員は主に黒人だった。「学生非暴力調整委員会」の略。キング牧師の非暴力主義を受け継いでいた。1968年の長崎の原爆記念日には集会に出席した。

青医連【せいいれん】〔組織〕
「青年医師連合」の略称。東大闘争の戦端を開いた有名な組織。医療の帝国主義的再編に抗した。

青春の墓標【せいしゅんのぼひょう】〔固有名詞〕
マル学同中核派の活動家であった奥浩平(1943~1965)の遺稿集。原潜寄港阻止闘争、日韓会談反対闘争などに参加するが、1965年に羽田で展開された外相訪韓阻止闘争で警棒により鼻の骨を折られ入院。同年3月6日、敵対党派と恋人への愛に悩み、「ああ、生きることはかくも厳しく闘うことなのか。かくも激しく分断されることなのか。それ故の確かさよ」という言葉を残して、プロバリン三百錠を服用し自殺。享年二十一歳。奥浩平は中核派、高校時代の同級生で恋人であった中原素子は早大生で革マル派に属していた。自殺の前年、革共同が中核派と革マル派に分裂し、敵対しあっていたことが、彼の自殺の動機の一つになったようだ。

世界同時革命【せかいどうじかくめい】〔標語〕
社学同の政治スローガン。ロシア革命は、一国だけでおこなったために、周囲の国や列強から弾圧され、歪んだ道すじをたどったという反省から、それぞれの国々で同時革命を起こすことで、本当の革命は実現できるとした考え方。これにより、社学同の国際的なつながりが生まれ、たぶん後に「日本赤軍」がPFLPと連帯したり、あるいは共産同赤軍派による「日航機よど号乗っ取り事件」などの行動の遠因になるのではなかろうか。

赤衛軍【せきえいぐん】〔組織〕
いまだに謎が多く、果たして実態があったのかどうか疑問の組織。ともあれ、1971年8月22日、埼玉県朝霞市の自衛隊朝霞駐屯地で、パトロール中の一場哲雄一士長(21歳)が、ナイフで刺殺され、現場付近に「赤衛軍」と書かれた赤ヘルメットとビラが残されていた。この事件で、11月26日に日大生であった菊井良治とA少年(19歳)が逮捕されたが、菊井の供述から京大経済学部助手の滝田修(本名・竹本信弘)の指示があったとされ、滝田修の潜航生活がはじまる。滝田は潜航中に『只今潜航中 中間報告』なる手記を出版したが、1982年8月8日に逮捕。しかし、滝田の潜航中には、公安によるさまざまなでっち上げ事件と見られる学生事件が続発した。

赤軍派【せきぐんは】〔組織〕
もともとは、京大などを中心とする共産同の中の関西派と呼ばれるグループを中心とする一派閥であった。が、全共闘運動が終息するに従い、総括や路線の対立から、共産同が関東派と関西派に分裂し、関西派が独立して赤軍派を形成した。この共産同の分裂時には、内ゲバ事件を起こし、中大に拘禁された幹部が窓から飛び降り、死亡した。
当初は「共産同赤軍派」と名乗っていたが、その前にブント内部では「ローテゲバルト(赤い権力)」という名のグループも存在したようである。1969年の明治公園における鉄パイプ爆弾事件で赤軍派が旗揚げする。このときヘルメットの色は赤地に白い文字で「赤軍派」。
のちに大菩薩峠で武闘訓練をしようとしたが、数十人が逮捕され、壊滅状態になる。以後、組織立て直しのために、M作戦と呼ばれるマネー強奪作戦で郵便局等の金融機関を襲撃、また栃木県真岡市の猟銃店に押し入り猟銃を奪ったりした。
この資金と銃を得た残党が、のちに労働者中心の組織であった京浜安保共闘と合体し「連合赤軍」を創設し、連合赤軍事件を起こす。
また、明治大学や中央大学の一部の活動家を加えた初期の赤軍派は、日航機よど号をハイジャックし、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に渡る。さらに、残りのグループはパレスチナ解放を目指す過激組織であるPFLP(パレスチナ解放戦線)と連合し、のちに「日本赤軍 Japanese Red Army」と名乗り、ダッカでのハイジャック事件などを引き起こし、世界的に有名になる。赤軍派の名称は、ロシア革命で白軍と闘った赤軍派に由来するようだ。ちなみに、白系ロシア人とは、革命ロシアに反対し、海外に逃れた、どちらかといえば白軍系の人たちをいう。
赤軍
※写真は、共産同赤軍派の旗揚げ時に情宣のために配られた発刊準備号。(1969年9月4日 共産主義者同盟赤軍派赤軍編集局(準)発行。実物はタブロイド判4ページ)

赤色エレジー【せきしょくえれじー】〔固有名詞〕
林静一の漫画の題名。同棲時代を象徴する先駆的な漫画。青林堂から発行。現代漫画家自選シリーズの第一巻目として1971年3月20日第一刷発行。のちにあがた森魚が同名の歌を唄った。上村一夫の「同棲時代」と違い、ストーリー性よりもイメージ的な描写が多く、その当たりが好まれた理由でもあった。

セクト【せくと】〔名詞〕
党派のこと。社学同、革マル派、中核派などの政治組織のこと。

セクト主義【せくとしゅぎ】〔名詞〕
党派の保身だけを考えること。他党派を省みず、自分の党派のことだけを守ろうとすること。

戦旗【せんき】〔固有名詞〕
共産同戦旗派の機関紙名。

戦旗派【せんきは】〔組織〕
共産同の中の主流的な派閥。戦旗派内部には、さらに分派があり、荒派(日向派)、反荒派(西川派or西田派)、国際主義派があった。のちに荒派は三里塚でゲリラ闘争を中心に展開、反荒派は赤軍プロ革派などと全国政治共闘を発足させた。

全国政治共闘【ぜんこくせいじきょうとう】〔組織〕
共産同内部の左翼武闘グループ。昭和51年、戦旗反荒派、赤軍プロ革派、全国委員会派、遊撃派、首都社研が結集して創設。

前衛【ぜんえい】〔固有名詞〕
日本共産党系の雑誌名。

全学連【ぜんがくれん】〔組織〕
全国学生自治会総連合の略称。各大学には学生自治会があり、その学生自治会の全国組織が全学連である。しかし、現実には、各大学の学生自治会の主流派を各セクトが握っていたために、やがて党派闘争が全学連そのものの主導権争いに発展し、各党派が独自に全学連を名乗るようになった。たとえば、革マル派系は革マル全学連と呼ばれ、民青系は民青全学連と呼ばれた。各党派のヘルメットには、正面に党派の名称、横に「全学連」の文字を書き込んでいるものがよくあった。

全共闘【ぜんきょうとう】〔組織〕
全学共闘会議の略称。大学の学生自治会の全国連合組織が「全学連(全国大学自治会総連合)」であるが、それとは異なり、基本的には、70年安保闘争あるいは、個別大学闘争勝利のために、学部やセクトを越えた連合体として各大学に作られたのが全共闘である。日大では日大闘争の際に全共闘が組織され、また東大でも医学部での紛争が全学部的な問題に発展してから、全共闘が組織され、この二つの全共闘が70年安保闘争の中核的な闘争組織となった。
一般的には、自然発生的にノンセクトの中のラジカルな部分が結集して作った大衆組織といってもよい。全共闘の代表を東大と日大の全共闘に置く人は多いが、それは偏った見方であろうと、今では思う。日大と東大の陰に隠れて、当時、各大学で次々と生まれた全共闘のことがあまり語られないのは、おかしい。
ともあれ、全共闘運動は、セクトの指導でその方針に素直に従うというものではなく、意識の中心になったのは、個人の主体が体制に対して、どのような闘いをしかけられるか、つまり個人の思想や行動の主体的な実践、勝利といったものを目指した。それだけに、そこにはマルクス主義だけでなく、実存主義もあり、リベラリズムもあり、さらには単なるお祭り参加気分のラジカリズムがあったり、もっといえば性的な面での解放運動や、文学を含む芸術的な運動なども包含していたように思われる。全共闘が1968年段階で強大なエネルギーを一挙に発揮できたのは、その大衆性のせいによるところが大きいと思われる。全共闘運動は、1969年の全国全共闘結成で、かたちとしては頂点を迎えるが、既に当時は、実質的には全共闘の時代は終焉し、セクトの時代に突入していた。
ちなみに、全共闘に似た組織形態であっても、各大学で名称が異なっていた。たとえば、また、全共闘と称する組織ばかりではなく、たとえば、中大では全中闘(全学中央闘争委員会)という名称になっていたり、他大学では全闘委(全学闘争委員会)という名称のものもあったり、「全共闘」という用語は、それらの個別の組織名を越えた総称ともなっていた。

前進【ぜんしん】〔固有名詞〕
革共同中核派の機関紙名。中核派の本部は池袋にあった「前進社」である。

前段階武装蜂起【ぜんだんかいぶそうほうき】〔標語〕
共産同赤軍派の軍事方針のひとつ。革命を起こすには武装蜂起が必要だが、革命運動を呼び覚ますために、その前段階で少数が先頭を切って武装蜂起し、革命運動に火をつけようという前衛党的な考え方。

総括【そうかつ】〔名詞〕
原則的には、闘争や行動などのあとでおこなう、反省や情勢分析をいう。が、連合赤軍事件の際には、死をともなった総括がおこなわれ、マスコミ的には粛正といった意味合いで使われることになった。

素朴肉体派【そぼくにくたいは】〔蔑称〕
面倒な理論はどうでもよく、ともかく単純素朴にゲバルトだけに専念するタイプの人間をいう。とくに中核派を他のセクトが評するときに用いた侮蔑的レッテル。

造反有理【ぞうはんゆうり】〔標語〕
毛沢東語録にある言葉。体制に造反するのは理由があるという意味。社学同ML派が掲げたスローガン。東大の1968年の五月祭で、この字が東大正門の門柱と立看板に書かれていた記憶がある。


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